組合紹介

小松織物産地の歴史

加賀絹の発祥地といわれる小松産地は、4世紀の雄略天皇時代に蚕桑と製織技術を習得し、天皇家へ奉献。室町時代に将軍足利氏へ献上したことから加賀絹の名声が高まり、慶長年間には武士の流旗に使われた。就中、小松地方産業の祖と仰がれる前田利常公は小松を機業地として勧業奨励することによって、その基盤が確立され、以来、明治初期の足踏手織から明治16年には、バッタン機が導入され、同35年にはジャカード機による紋織物が始めて製織された。さらに同41年力織機が出現するにおよび、これが普及を図ったので工業化が一段と進展した。
特にジャカード機を装置した力織機による紋織物の製織には実に辛酸を極めたが、産地同業組合を設立、試験、研究に努めた結果、目覚しい発展を示し、日本の繊維産楽発展史にも特筆される一大紋織物産地に発展したのである。

小松織物産地の沿革

産地振興の支柱となった同業組合の組織は、明治36年2月県知事認可による石川県能美郡絹織物同業組合が創立され、大正12年8月組合事務所を小松市京町 68番地に移転、昭和5年3月小松市大火に類焼、同年12月に近代的建物に復興した。以来、法規改工や制度改革により、度々名称を変更したが、昭和17年には戦争による企業整備、企業合同が強行され、小松内地向絹人絹織物工業組合、朝鮮移出織物工業組合および小松輸出絹人絹織物工業組合が合併し、小松織物工業組合となった。
昭和18年には約30%の施設を残すほか、あげて国に徴発されて壊滅的な打撃をこうむった。その時、整備供出された織機台数は8,199台におよび工場総数477工場のうち、250工場が整備廃業の憂き目を見るにいたった。
戦前戦後幾多の栄枯盛衰、改組変遷を経て、昭和24年3月中小企業等協同組合法に基く、小松織物工業協同組合に改組し、現在組合員企業104社、共同事業として組合金融事業、資材の共同販売、青色申告記帳代行、各種展示会の出展などを行なっている。

ジャカード隆盛記念塔(小松芦城公園内)明治42年建立